ホリエの歴史
ホリエの歴史
秋田での堀江家の歴史を紐解いていくと、常陸国から転封となった佐竹義宣の家臣として出羽国秋田へ来たのが始まりです。
先祖は手先が器用で書道や篆刻などを好む方が多かったと言い伝えられてます。
書道はただ字を書くのではなく、筆と紙を通して字に思いや感情を込めて書きます。
そのような文字に対する想いが脈々と受け継がれて代堀江重久の趣味である書道と篆刻を活かし明治5年に堀江印舗を創業しました。
そして途切れることなく、現在を迎えております。
写真/二代目 重久(金冶)
明治12年3月〜昭和11年
二代目 重久(金治)
二代目重久は明治12年、初代重久の長男として誕生しました。明治時代に入り一般的に苗字を持つことが許され、姓と名をもつことが当たり前の世の中が始まります。金治が生まれる6年前の明治6年7月に「国民相互間の証明には印鑑を用いること」と布告されました。
創業し14年を迎えた明治19年4月30日、秋田市の大火「俵屋火事」が起こります。その地域の7割が消失しましたが、大火のど真ん中にあった那波呉服店、酒屋、榮太楼、床屋、そして堀江印舗が奇跡的に残りました。那波呉服店を燃やすまいと集まった人たちの活動と、那波呉服店の用水池を利用し火の粉を振り払えたゆえの結果でした。明治23年2月、法律第十七号は、各自に実印を定め、市町村役場に「印鑑登録」を行い、法律上の公証力を持たせる定めとなり、現在に至ります。 この時代は人々の暮らしの中で、印鑑の役割が大きくなっていく時代でした。明治30年に大町から茶町扇ノ町に移転。事業は安定していきます。大きく変わる時代の中、その時代に必要とされた印鑑をつくることを使命とし、お客さまの役に立つことを喜びにしながらの歩みでした。
写真/三代目 重久(栄)
明治38年5月〜昭和32年10月
三代目 重久(栄)
三代目重久は明治38年5月に二代目重久の二男として生まれました。長男重喜は明治42年9月に7歳で亡くなっています。長男が早逝していることで、家督を継いだのが二代目重久(栄)です。
昭和12年に茶町店舗を新築、ゴム印製造機械を導入し、大量生産を図ります。県庁・国鉄・裁判所などと年間納入契約を行い、さらに事業を発展させました。
昭和32年8月に、当時二丁目橋にあった秋田県庁が出火。議事堂などを含む三千坪が灰燼に帰しました。当時の県庁業務においてはんこは欠かせないものであり、火事場から大量の注文が舞い込みます。行政がうまく稼動しないことは地域にとっての危機でもあり、その注文に応えるべく、親族を集め5人がかりで不眠不休で彫刻し、納品にいたりました。 それからわずか2ヵ月後の昭和32年10月に病のため53歳で亡くなります。代々受け継がれている「人のために尽くす」という想いを、病の中でも貫き通し、印章業の役割を最後まで全うされました。
写真/四代目 重久(利男)
昭和7年4月〜平成25年2月
四代目 重久(利男)
四代目重久は昭和7年4月に三代目重久の長男として生まれました。昭和32年10月に重久を襲名。昭和44年12月に現在の店舗である山王二丁目に店舗・工場を新築移転。翌年6月に有限会社ホリエ印舗を設立、大町を支店とします。昭和48年には、はんこだけではなくそのほかの事業にも挑戦したいという想いで株式会社ホリエを設立し、社名から印舗がなくなります。四代目は激動の時代の中、様々なことに挑戦をしました。業界初となる業務用無線を導入、各営業車に設置、機動力を高めました。昭和54年には東北初カラー年賀状の印刷および同パック商品を開始し、本格的に印刷分野への参入をはじめます。昭和57年にはファクシミリを導入し、県内全域に代理店販売(卸売)を展開、翌年58年には開運印鑑テレビショッピングを行い、昭和61年に山王工場を増設し、大町支店を閉鎖することで、合理化を進めました。新商品の開発にも努めます。平成10年にはジャンボスタンプを開発。乳頭温泉鶴の湯ほか、秘湯温泉、道の駅などへ販売、平成12年には漆塗り印鑑「雅」(川連塗)を開発。新宿高島屋、渋谷ロフト、秋田県物産展などで販売します。伝統を引き継ぎ、挑戦を行うことで新たな道を生み出したのが四代目です。
写真/五代目 重久(知佐子)
2017~
五代目 重久(知佐子)
五代目重久は昭和37年9月に四代目重久の次女として生まれました。
幼少より両親の働く姿を見ながら、小学生の頃にはお店屋さんごっこと称して店番をし、近所や駅前の銀行や証券会社などへの配達の手伝いをしながら育ちました。
昭和58年、入社後は製造部を担当し版下からゴム印の製造、印刷物など物づくりを経験し、平成20年に代表取締役就任。 歴代重久より受け継いだ想いは「おかげ様です。ありがとう」「人様に喜ばれる人になる」。
秋田の地に続いてきた老舗としての真の役割を常に見つめながら、新商品開発と新たなことづくりに挑んでいる。平成27年JR東日本商品化許諾を受け「押鉄(おしてつ)」はんこ&ゴム印の商品化。樺細工の老舗、角館の?八柳さんとコラボし桜皮細工のはんこ 「桜はん」を商品化。その他、自分の印(しるし)としての落款印をお客様自身が創作する「篆刻体験」の開催や、若手職人による実演販売など、はんこを暮らしの中の楽しむモノとしての普及活動も積極的に行っています。
平成29年7月19日、五代目 重久と改名。初の女性「重久」(じゅうきゅう)となりました。
「どうせ生きるなら、良いも悪いも人生楽しまなきゃ勿体ないでしょ」
四代目 重久の教えを大切にし、進化し続ける200年企業を目指しています。